髭切膝丸双騎出陣〜SOGA〜感想

 

「源氏兄弟はふたりでひとつ」と、公演前、2.5次元ラジオで、膝丸役の高野さんは言いました。

『双騎出陣~SOGA〜』は、髭切役の三浦宏規さんと膝丸役の高野洸さんが「ふたりでひとりの時分の花」として「まことの花」の加納幸和さんと共に咲いた、素晴らしい舞台でした。

 

 

※これは『双騎出陣~SOGA〜』を心から楽しんだ一ファンの感想ですが、冒頭のみ読みますと真意が伝わらない懸念があります。

どうか、最後までお読みくださいますと、嬉しいです。

 

 

 

【双騎出陣~SOGA〜をどう位置づけるか】


まず、今回の双騎出陣~SOGA〜のお芝居を、刀剣乱舞のキャラクターである髭切と膝丸が演じている、もしくは彼らが『三百年の子守唄』で示された画期的な歴史の守り方「刀剣男士が時間遡行軍によって殺された歴史上の人物に成り代わり生涯を演じることで歴史を守る」といった任務であったとみなすことは、難しい。


というのは、『三百年の子守唄』と違い、『双騎出陣~SOGA〜』の曽我兄弟は、髭切・膝丸とは見た目がまったく違う上に、性格までまったく違います。「らしさ」の片鱗は感じられるものの、はっきり別人のように迫ってくる。

また、見た目や性格を変えてまで演じていたと仮定すると、兄弟互いへの愛情を歌うのは髭切・膝丸と重ね合わせられるものの、この芝居の感動的な要素のひとつである曽我兄弟の父母への愛情を表現したシーンの数々が、とたんに空虚に感じます。髭切・膝丸は刀の付喪神ですし親はいません(現在までに出ている設定では)。例えば、作中で十郎と五郎がふっと髭切と膝丸に戻る瞬間があり、人間の親への愛情というものが自分に芽生えたことに戸惑いながらも受け入れていくシーンなどあれば、『結びの響、始まりの音』の巴形薙刀が自分の物語を探していたように、髭切・膝丸が心まで人間になりきって曽我兄弟の人生をなぞることで人の心を学び彼らの物語を得る任務だった等感じることができます。しかし、『双騎出陣~SOGA〜』の一部の芝居中、演じている三浦宏規さんと高野洸さんが髭切・膝丸を演じていると明示的に示唆するシーンは一瞬でもありません。そのため、無理にこの話のふたりは髭切・膝丸であると考えようと「このシーン、髭切と膝丸が『演じて』いるのか」と思うと、性格まで違わせ一瞬でも正体を見せず演じ死んでいく髭切・膝丸にどう感情を乗せて観ればいいかわかりませんし、刀の付喪神を人には理解できない感情を持つものではなく人間くさいものとして描いていたこれまでの刀ミュの世界観が崩れてしまいます。それに、この芝居を曽我物と受け入れ観ていたときの曽我兄弟の生を想い膨らんでいった感情もスッと醒めてしまいます。

ただ純粋に見たそのままの感覚を記せば、「刀ミュで髭切・膝丸を演じてくださっている役者さんの三浦宏規さんと高野洸さんが曽我物歌舞伎に挑戦し素晴らしい演技をした舞台」に見えますし、芝居としてはそう観るのが自然でしょう。彼らが演じた曽我兄弟の、曽我兄弟としての互いへの愛情、父母への愛情、気高い決意とその実行への軌跡は、そのまま曽我物として見ている状態の時、真に胸に迫ってきます。


その上でこの芝居は「源氏兄弟の曽我兄弟パロディ」として楽しみました。というのは、まずこれは刀ミュの興行であると銘打たれているし、その刀ミュで今回の曽我物を演じた三浦宏規さんと高野洸さんは髭切・膝丸役をされている。そして、曽我物語は髭切・膝丸に関係する話であるからです。


刀剣乱舞の髭切・膝丸というキャラクターは数あるこのふたつの刀の伝説を記した書物の中から『剣巻』をおおもとにして作られています。そして『剣巻』のなかでは曽我物語が語られます。これを下敷きにした上で、刀ミュで髭切・膝丸を演じてくださっている役者さんが曽我物語を演じていると観る。

 

 

 

曽我物語と髭切・膝丸の関連】


ここでまず、曽我物語が髭切と膝丸という刀にどう関わってくるのかの話をさせてください。


刀剣乱舞世界に存在する刀剣男士は、モデルを実在の刀からとったものが数多くを占めますが、また伝承のみ伝わり現存していない刀も多く存在します。

髭切・膝丸は、どちらとも言えない刀です。多くの髭切・膝丸とされる刀が現存する一方、その刀たちの来歴は様々で、そのどれもが様々な時代の様々な人物・形態の伝聞・創作によって由来を語られています。

その様々な伝承を統合しようとすると幾多の矛盾が生じます。刀剣乱舞は髭切・膝丸というキャラクターを生み出すにおいて、様々な伝承のなかから『剣巻』を選んでモデルにしました。


ゲーム・刀剣乱舞-ONLINE-における髭切・膝丸は他の刀剣男士にはないレベルアップの仕方をします。

通常、出陣等を繰り返し一定の鍛錬レベルに達した刀剣男士は「特」が付きステータスや戦闘服が変化します。その「特」がゲームのなかで髭切のみ「特三」段階まで用意され、また、膝丸も「特二」まで用意されています。

この特殊な段階を経るのは、ゲームの髭切・膝丸は、様々なバリエーションのある髭切・膝丸伝説の中で、刀の名前が変わっていくことを題材にした『剣巻』を準拠に生み出されたキャラクターであるからと言えます。


この『剣巻』は、おおよその流れとして源氏重代の歴史を髭切・膝丸という双剣を中心に語る話です。源氏の世になりました、めでたしめでたし。で、終わらないんです。わざわざ最後話の視点をガラッと曽我兄弟に変えて、著者はようやく筆を置きます。

ずっと源氏の嫡男を視点に語ってきたのだから源頼朝が幕府を樹立して終わるのがきれいな気がするのに。しかしそうはなっていない。それは、この『剣巻』の主役はあくまでも髭切・膝丸という双剣双剣を中心に語った場合、著者は曽我兄弟で締めるのが重要と考えたわけです。その理由は曽我十郎と曽我五郎の関係を髭切・膝丸という刀を媒介にし源頼朝源義経の関係に対比させるため等、様々な説がありますが、ここでは割愛します。


曽我物語は剣巻が書かれた頃には広く親しまれている話だったようで、剣巻作中では「あの有名な曽我兄弟が〜」といった感じで話の詳細は省略されています。剣巻は平家物語の外伝のひとつになっていますが、平家物語本伝が書かれた時代よりずっと後に書かれたものなので、剣巻より曽我物語太平記吾妻鏡の成立のほうが古いのです。剣巻はこれらの軍記物語や歴史書のエピソードから着想し双剣を主役に書かれたいわば当時のパスティーシュなのですね。

 

 


【双騎出陣~SOGA〜とつはものがゆめのあとの関連】


『つはものどもがゆめのあと』のなかで、ひとつだけ取りこぼされた問題があります。それは、髭切が膝丸に「この時代の箱根権現におまえが奉納されているか見に行くかい」と誘うものの、膝丸は己が今剣や岩融のように物語上だけに存在する刀かもしれないとの疑念を抱き「見に行くのがこわいので行かない」と言うのですが、この膝丸の胸に生じた疑念が物語のなかで解決されないのです。

これが、どうしても話の構成上しっくりこないのです。

『つはもの』のなかで、髭切のほうは実在が確認されました。が、膝丸の実在への言及はありませんでした。髭切・膝丸伝説について扱う論文を丁寧に追っていくと、現在の研究では髭切のほうは実在した刀だが膝丸のほうは頼朝と義経、曽我十郎と五郎の話をおもしろくするため、髭切にあわせつくられた物語上の刀ではないかとする見方も強いです。ニトロプラス/刀ミュチームもそういった現在の研究を反映させ、話のなかで膝丸の実在をぼかしたのかもしれない。もしくは膝丸の疑念の解決まで書くには尺が足りなかったのかもしれない。

でもやっぱり、この『つはもの』がちゃんとオチるためには、なんらかの膝丸の胸に生じた疑念への解決が必要と感じるのです。

自分を納得させようと、自分で刀ミュ本丸の膝丸が義経を装って箱根権現へ参り別当から薄緑を授けられ安心する小説を書いて発表したりなどもするほど悩み、周囲に読んでもらい話を聞いてもらったりしていました。

それが、この『双騎出陣〜SOGA』で、まさに箱根権現の別当から薄緑を授けられる五郎を装った膝丸の描写が入った。びっくりしました。よかった、刀ミュは膝丸の悩みをないがしろにしなかった。ちゃんと補完された。それ以外は「曽我物歌舞伎」だった『双騎出陣〜SOGA』のなかで、この箱根権現に膝丸の実在が確認されたシーンは、これが刀ミュの世界観を受け継ぐ作品であると感じられるものでした。

嬉しかったです。これでやっと、審神者は刀ミュ本丸の膝丸に「よかったね」と心から声をかけてあげられる。審神者を喜ばせようと楽しそうにダンスを踊り歌う刀ミュ本丸の髭切と膝丸は、愛されている刀なのだと安心して見れる。嬉しい。

 

刀ミュの膝丸もまた迷いを吹っ切れたからこそ、双騎でお披露目された双つの軌跡の新歌詞「辿り着いたのは あなたの隣」なのかもしれません。

 

 

 

【戻って双騎出陣~SOGA〜の美しさ】


曽我物語については、多くのバーションの物語や戯曲があり、今回の話がどの戯曲を下敷きにして書かれたのか特定するのは好事家ではないと難しく、一般的と思われている話とは結末がやや違いますが、曽我物語を題材にした戯曲それぞれ細部の差異があるので、『双騎出陣〜SOGA〜』の結末が数ある曽我物のなかでユニークなものなのかは、判断できません。

ただ、もし刀剣乱舞の髭切・膝丸もこのような最後、つまりふたり一緒に最後を迎えられたら、彼らはとても嬉しいのではないかと思いながら見ました。

果てるとき弟の戦化粧を崩すように手を伸ばす兄と、兄のなきがらを地につけぬよう自らのからだを下にもぐりこませる弟の姿は、とても美しいものでした。


『双騎出陣~SOGA〜』はそれまでの刀ミュと比べ飛躍的に挑戦した演出がたくさんあり、まず劇場に入った瞬間に息をのむのは、作り込まれた豪華な舞台美術のセットです。二階建てで出入り口がパッと確認できるだけで八ケ所あり、リズムと奥行きのある場面転換が可能になっていました。衣装も素晴らしいデザインのものを惜しみなくたくさん披露されました。そしてなんといっても、作中の歌が多くなった。ミュージカルは心情を歌に乗せて交わし合う表現舞台。歌がたいへんに素晴らしかった。歌詞も演者の技術も。


歌舞伎は終盤に殺陣がある演目も多いのですが、この刀ミュが培った殺陣技術が歌舞伎とぴったりあって、コンパクトに調和の取れた優れた演目になっていました。楽しい。


加納さんが曽我兄弟の母、箱根別当、そして語り部の三役をひとりで演じられているの、しみじみお芝居ならではでおもしろい。

小説で書くのでは生まれない表現。ふたりの母、そして敵討ち前に父のような役割を果たす箱根別当曽我物語を後世に伝えたと吾妻鏡に記載のある虎御前の役割を負った語り部、三役をひとりで演じられることで、別の役がそれぞれ持つ共通の愛が見えて。

二部のライブパートで加納さんが演じられた、婚姻衣装のような真っ白な振り袖に遊女のように帯を垂らした女性は、虎御前による曽我兄弟への追悼の舞を表現しているのかな。美しいです。


わたしが最も心打たれたシーンは、兄弟が母へ仇討の許可を問う『舞をひとさし』です。

「こんなに立派になりました」とこの最も観る者の感情がおおきくなる重要なシーンに、三浦さんの長年のバレエ経験に裏打ちされた美しい流れるような舞に、CDデビューのためボイストレーニングを積み飛躍的に安定した高野さんが歌う、成人してなおまだ残す美しい伸びやかな高音の声が合わさり、一瞬たりとも目が離せない表現が舞台に生まれます。その後、舞い手と歌い手が入れ替わり、幼少期からダンサーとして活躍した高野さんの全身を完璧にコントロールして表現する硬質の舞に、レ・ミゼラブルを経て順調に培われた三浦さんの高い歌唱力が合わさります。その後のふたり揃っての舞は、すべてにおいて対象的な容姿・踊りを持つも同じような身長・体格のふたりの、美しい対称が表現されます。

高い身体能力が存分に伝統芸能の表現で生かされている。


思い返せば、『つはもの』の発表があった日、並んだふたりを見て、こんな好対照のふたりを、キャスティングのかたはよく見つけてきたなと、脱帽しました。

彼らが対称なのは、見た目だけではなく、経歴もまったく別のしかし似通った道を歩んできたらしい。鏡の国の自分のような相手に出会い、二卵性双生児のような兄弟役を与えられてから、シンメになろうと努力したり、ふたりのダンスの中間を見つけようと試行錯誤したりされたと、インタビュー等で拝見しました。そして今回、ついに、「ふたりでひとつ」を表現すると、彼らから語られました。


その宣言通り、舞台上でふたりの魂の融合を見た。ふたりでひとりの役者として、大ベテランに必死に食らいついていった。人生で最も美しい時期をかけて、いまの彼らと同じ歳くらいで討ち死んだとされる、いつまでも物語上で愛され続ける曽我兄弟を演じる。

とても素晴らしいものを観ました。

彼らほど高い身体能力を持った者が、対称的な相棒を持った、奇跡。

ふたりこの時期しかできない舞台。


刀ミュの興行として刀ミュのなかで髭切役と膝丸役を与えられた三浦宏規さんと高野洸さんが、髭切・膝丸に関係する曽我物語を、歌舞伎のフォーマットで演じる。幾多の前提を客と共有することで成り立つ信頼の演目でした。

 

 

 

【二部・ライブパート】


三浦さんと高野さん、おふたりのパフォーマンスはとても安定して見ごたえがあります。多くの刀ミュファンが双騎出陣公演を熱望したのは、彼らの二部・ライブパートにおけるパフォーマンス力の確かさに信頼があったから。

アイドルだなぁ。幼少の頃から舞台の上で踊る仕事をされてきたおふたり。スポットライトを浴びるために生まれてきた、生まれながらのアイドル。自然に人から愛を浴びる用意のある身体。自分が愛を浴びる者であると心から信じられる者が持つ臆さなさのある堂々としたファンに向ける笑顔。安定感があります。

めちゃくちゃ楽しい。衣装もいっぱいで豪華で。縦横無尽に跳ね回るパフォーマンス。そして歌もたいへんにうまい。安心して心から浸れる。

三浦くんと高野くんの美しさを浴びながら知能を捨てたひたすらに手を叩くブリキのおもちゃになっていた最期、この公演で初めて戦闘服を着てふたりが出てくる。その瞬間、髭切と膝丸が出てきた!と、ハッとしました。テンション最高潮になると同時に実家に帰ってきた安心感。すべてにおいて好対照の三浦くんと高野くんがふたり並び立ったときの何倍にも膨れる相乗効果の美しさ。それが最初に見出されたのはミュージカル刀剣乱舞の髭切・膝丸役としてキャスティングされたときです。やっぱりこの衣装が安心する。わたしは刀ミュが好きだなあ。胸にたくさんの愛を受け取り、とても素晴らしい気持ちで劇場をあとにしました。

 

 

 

【終わりに】


2.5次元ミュージカルというジャンルのエンターテインメントが、ジャニーズやEXILEK-POPアイドルのコンサートを楽しむように、宝塚や歌舞伎座を楽しむように、楽しめるようなコンテンツに育っていったら素敵です。

今回、あくまでも2.5次元ミュージカルであるミュージカル刀剣乱舞という看板内で、伝統芸能に挑戦してくださったことは、2.5次元というジャンルにおいてエポックメイキングになったと思います。近年の日本文化であるキャラクターコンテンツと伝統芸能の融合はとても相性がいい。特に浮世絵という役者のブロマイドを流行らせた歌舞伎と2.5次元ミュージカルは、とても似ていて、相性が良かった。


これからもキラキラをわたしたちに与えて欲しい。

取り急ぎライブパートの新曲CDアルバムを与えてください。お願いします。

 

 

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【追記】

 

友人らと感想を話し合ううちに、ひとつ、一部に髭切・膝丸が出てこないことについて、知見を得たので紹介します。

芝居の冒頭、人形のようなものが死霊を表現していると思われるダンサーさんたちに運ばれてきます。

デスマスクのような仮面をつけたそれが動き出し、一万と箱王になるのですが、これは髭切と膝丸のからだに一万と箱王の霊が乗り移った表現だと。

そうして髭切と膝丸が霊魂を口寄せし語ったのだという見方です。


確かに!それなら、一幕の舞台上にいたのは、髭切と膝丸のからだを借りた曽我兄弟ということになります。それなら、あの兄弟お互いへの愛情、父母への愛は、まぎれもなく曽我兄弟の本物の感情ということになる。

(逆の、曽我兄弟の死体ないしは模した人形に髭切・膝丸のつくも神としての魂が入ったというのはありえません。そうした場合、やはり髭切と膝丸は自身と人間を偽って完璧に他人を演じることができるおそろしいものになってしまい、それは個人の解釈として「神らしい」とする人もいらっしゃるとは思いますが、刀ミュという作品の作家性である刀剣男士を「人間くさいもの」として描いてきた価値観にはそぐわないからです)

 

もしこれが正解なら、演出側は冒頭の表現で説明に足り伝わると観客を信じてくださったのだと思いますが、この「一部に髭切と膝丸が出ていなかったと感じた」という点において千秋楽後賛否論争が盛んになったように、今回は伝えるべきことを伝えられる表現に満たなかった面もあるのかなと感じました。

 
それにしてもあの人形になった姿、とても美しい表現でした。あの冒頭のシーンの衝撃を双騎を観る予定のすべての人に体験してほしくて、もう絶対、絶対にネタバレ踏まないで欲しかった。

ふたりが現れた時のファーストインプレッション、衝撃は人生に一度しかない。